加藤光太郎

歴史上の人物

くも箱の作者「故」加藤光太郎氏

加藤光太郎氏(神奈川県横浜市)の本業は木型職人。

くも箱を生産開始したのは、関東大震災の次の年、1922年の事でした。

外で男の子たちが盛んに蜘蛛を捕まえて、喧嘩をさせ遊んでいる姿を見て、蜘蛛の入れ物を作って売り出せば売れるだろうとくも箱を考案しました。

ボール紙製の箱に千代紙貼り、大きさは3種類のバリエーションがあり、その中でも6匹入れの箱が人気だった。

1922年から1960年代のはじめまで、およそ40年に渡りくも箱を一手に生産し、東京の蔵前、横浜の長者町、千葉県方面の玩具問屋にも卸していました。

第二次世界大戦後の昭和20年代が一番売れ行きが良く、年間60万箱も生産されていました。

生産数量を聞いただけでも、当時のくも合戦文化の人気ぶりが伺えますね。

蜘蛛箱:フンチを活かして入れておける小部屋になっている箱